”おばあさん”がのこしてくれた大島紬

今年の夏に、ひいおばあちゃんが101歳という長寿で亡くなった。

大正生まれで、昭和、平成、令和と生きたひいおばあちゃん。

残念ながら80歳後半頃から認知症を患い、約10年間は施設で過ごしていたけども、幼少期から高校生まで一緒に過ごした記憶が今でも蘇る。

 

なぜかうちではひいおばあちゃんのことを”おばあさん”と呼ぶ。

おそらくおばあちゃんと区別をつけるためにみんなそう呼んでいたのかもしれない。

”ひいおばあちゃん”だとどうしても自分のなかで違和感があるので、ここでもおばあさんと書かせていただく。

 

おばあさんは控えめで上品な人であった。

嫁いだ先は呉服屋で、戦争のさなかでもおじいさんと必死に働き、お店の土台を築いていった。

その後呉服屋は順調だったが、突然おじいさんが50歳の若さで旅立ってしまう。

おばあさんは決して自分が表に立つ人ではなかったから、おじいさんに替わって店主となった、当時まだ若い祖母をサポートしていた。

母によると、おばあさんは仕立て全般を担当していたそうで、お客様の寸法から和裁士さんへの依頼などを担っていた。

カリスマ的存在だった祖母のもと、「高級老舗呉服屋」としてお客様から愛されていたお店であったが、祖母もまた52歳の若さで突然亡くなってしまった。

夫にも娘にも先立たれて、おばあさんはつらいときも多くあったかもしれない。

それでも、いつもひ孫の私たちを心配してくれ、自慢のひ孫だとにこにこ見守ってくれていた光景が目に焼き付いている。

  

そんな優しいおばあさんは私が小さい頃までほぼ毎日着物を着ていた。

特に覚えているのは、結城紬や大島紬。

いつも結城や大島に割烹着姿で台所に立っていたり、ひ孫である私や兄弟をお風呂に入れてくれていた。

 

 

そんな結城や大島が、おばあさんの箪笥から思いがけず出てきたことがあった。

もうとっくに処分してしまっていたと思っていた紬たちが、かつてお店で使っていたウコン染めの風呂敷に包まれて、きしんだ桐の箪笥に入っていたのである。 

おばあさんの大島紬に牡丹の染帯を合わせて

見つけたときは懐かしさでいっぱいになった。

その時はもうコロナが始まっていた頃で、もう一年以上施設に会いに行けていなかった。 

 

結城を広げてみると、カビくさい匂いで鼻がムズムズ。

数日間かけて干し、風をたくさん通した。

  

着てみると、身長が低い私にぴったりのサイズで、当時着物超初心者の私にとっては本当に幸運なことであった。

というのも、母や義母から譲り受けた着物は丈が長すぎておはしょりをたっぷり取らなければならず、初心者には難しい。特にちりめんは重いし滑ってうまくまとまらない。

一方おばあさんの結城や大島は、サイズもぴったりだし(裄が短いのはもうしょうがない)、なんと言っても体にぴったりと沿って着やすく、ついつい手が伸びてしまう着物であった。

初めての京都着物旅でもこの大島紬を選んだし、今でもちょっとしたおでかけで大島紬を着てしまう。

おばあさんの結城紬や大島紬は、サイズがぴったり、汚れに敏感にならなくていい、洋服ばっかりの場所でも馴染みやすいなどの理由から、気づくと着物初心者の私にとっての”練習着”となり、すっかり”いざとなれば頼れる存在”となってしまった。

京都で初めて自分できた結城紬は着やすさ抜群

 

そんなおばあさんの着物を発見して約半年ほど。

いつおばあさんにこの着物姿を見せてあげられるだろうか。おばあさんの大事な着物を私がこうして大事に着ているからね、安心してねと本人に伝えたくて、いつこの状況がおさまるかなあと日々を過ごしていた。

しかし結局着物姿を見せられる日は来ず、今年の夏に父からおばあさんが息を引き取ったと連絡があった。

 

ああ、結局見せられなかったなあと悲しくなるかなと思っていたけれど、おばあさんの結城紬や大島紬に袖を通すたびに、一緒に居てくれているような温かい気持ちになり、もっとたくさんこの紬を着て出かけたい!という前向きな気持ちになる。

 

かえって、おばあさんに着物姿を見せていたらそれで満足してしまう自分が居たかもしれないし、もしかしておばあさんも着物の行き先が決まって安心したからやっとおじいさんとおばあちゃんのもとに行けたのかもしれないなあと、ニコニコ笑うおばあさんを思い出しながら考える。

 

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