元呉服屋に生まれながら自分で浴衣さえも着ることができなかった私。
母の助けを借りずに着物を着れるようになろうと決心したのが約2年前で、いきなり着物からではなく、まずは簡単な浴衣からマスターしようということになった。
浴衣を広げ、横に立つ母の手の動きを真似しながら、下前、上前をかき合わせ、「ここは裾すぼまりを意識してぐっと上に持ち上げて」とか「衣紋は抜きすぎるといやらしくなっちゃうからこのくらい」とか、聞きなれない言葉に追いつけず、そして体が思うように動かず、何度も挫折しては、思い立ってまた母の元へ習いに行くという繰り返しだった。
当時の写真を見ると、衣紋は詰まりすぎ、おはしょりは長すぎ、帯は不自然にぎゅっとなっていて、全然理想の着姿ではないのになぜか顔は満面の笑みである。着姿が100点でなくても、自分で着れた喜びのほうが大きかったようだ。
こうして何度か繰り返すうちにだんだんとコツが掴めるようになり、不器用ながらも体が先に覚えてくれて、着物も一人でなんとか着れるようになった。
そしてこの夏、やっと念願の京都の祇園祭で浴衣を着ることができた。
一日目は絞りの浴衣に赤の博多帯で。
二日目は矢絣に縞の半幅帯で、昭和レトロ風に。
まだまだ100点ではないが、それこそ京都で一人で浴衣を着ることができたことだけでも満足だった。
また、いよいよ今年は人に着せる機会にも恵まれた。
師匠(と呼んでいる)である母は同行せず、私一人だけだったので、「これが浴衣の最終試験だね」という話になった。
着付ける人は姉と義妹とはいえ、初めて人に着せることになり、美しく着せることはもちろん、どうすれば浴衣を着ていても楽で過ごせるか、また着付ける時に距離が近くなることからできるだけ短時間で不快に思われずに着付けられるかということがポイントだった。
着物スタイリストである大久保信子さんの本で紹介されていた、手拭いの伊達締め、新モスの腰紐を手作りし、なるべく少ない着付け道具で済むように準備。そして着付けの時には、かつて母がそうしてくれたように、着付ける人の正面をできるだけ避け、短時間で済ませた。
二人の着付けをして自分の着付けもしてで、お祭りの時間に間に合わない!と一人で焦って心臓はバクバクになりながらも、無事に結果は大成功。
二人はとっても喜んでくれ、全然苦しくない〜と屋台で買ってきたあゆの塩焼きや焼き鳥を頬張りながら、いつも以上に写真を撮って喜ぶ姿は何よりも嬉しく、また、師匠からも合格をもらえたのが嬉しかった。
今回全く体型の異なる二人に着付けをし、同じやり方なのに雰囲気が異なる着姿になったのは、自分で着物を着るだけだった世界では実感できなかった、新しい発見でもあった。
それぞれが持つ個性を最大限に引き出してくれるのが和装の魅力であり、特に一枚でまとう浴衣はそれがはっきりしている。
やっぱり着物って奥が深いなとますます着物にのめり込んだ出来事だった。